【執筆済】1.蜘蛛の夢【眠れない君に贈る愛言葉】

1.蜘蛛の夢

 

僕の妻は、地に足をつけた夢想家だ。

学生時代は哲学を専攻していたと言う彼女の行動原理は「超人」にあり。「何度巡っても何度繰り返しても後悔しない生き方をする」といって、時々思い切りの良いことをする。例えば、人見知りなのにイギリスへ1ヶ月の語学研修に行ったり、誰かの上に立つのが苦手なのにサークルの代表をやったり、そういうことを平気でする。その度に上手くいかなくて泣いて傷ついて、でも頼まれると断れない。
曰く「引き受けないで罪悪感を感じるより、いっそ引き受けてしまった方が気分が軽い」そうだ。「後ろ向きだ」と言うかもしれないが、彼女は責任感の塊みたいなものなのだと、僕は思う。
就職してからも、僕の妻ーー結衣の生き方は変わらない。変わらないから、ひどく不器用な生き方をして、結衣は大きく傷ついた。傷ついたのだと、僕は思う。そんな彼女の逃げ道は、夢想すること。彼女は昔から本が好きで、幼い頃から物語を書いていたそうだ。僕と結衣が出会ったのは大学に入学してからだから、本当に好きだったか証明する手立てはないのだけれど。
けれど、結衣の豊かな想像力は、時に彼女を傷つける。僕がそのことを知ったのは、結婚してからだった。


付き合い始めてから3年後、僕たちは結婚した。婚姻届だけ出して、式は挙げなかった。僕の実家に行って、僕の母と3人で寿司を食べた。
僕の母は、結衣のことをいたく気に入ったらしく、それから実家に帰るたびに「あんた、ちゃんとしなさいよ」か「ランドセルはいつ買えばいい?」か、あるいは両方を投げかけられる。
彼女の実家に挨拶には行っていない。彼女が行かなくていいと言ったからだ。
「私は、もう家を出たから、関係ないの」
結衣は、家族のことを話したがらなかった。きいてしまうと、彼女はひどく不機嫌になった。だから僕は、彼女の家族について何も知らない。
僕たちは大人だ。だから、両親の同意がなくとも、婚姻届を出すことはできる。
名字が同じになってすぐに、2人で暮らす部屋を借りることにした。駅から徒歩5分の、電球のない部屋に引っ越した。
「蛍光灯、買ってこなくちゃ」
引っ越してきた日に、彼女はそう言った。すぐに駅前の商店街へ、手を繋いで買いに行った。
こじんまりした電気屋が一軒だけ見つかった。10年使えるLEDと、3年で電球が切れる蛍光灯のどちらにするか迷って、「10年先なんて、まだ上手に想像できないから」と蛍光灯を購入した。
僕はエンジニアとして、結衣はライターとして、日々パソコンと格闘していた。キーボードが見えなくなるから、蛍光灯の明かりは重要だ。
けれど仕事しない時は蛍光灯の明かりをつけない。一緒に薄暗い部屋で過ごした。シングルサイズの布団に、2人で潜り込んだ。間接照明は、北欧の作家がデザインしたアロマライト。
「普段からライトの明かりを浴びすぎているから、夜くらいは静かに暗闇を満喫しよう」
僕の提案に、結衣は「丸の内OGだもんね」と喜んた。
「OGって、何の略?」
「オフィス・ジェントルマン」
したり顔の彼女。僕は「座布団どーぞ」とクッションを投げた。
眠る時には間接照明を消して、カーテンを開けた。街の明かりが夜空を照らし、僕たちの部屋までうっすらと明るい。
「朝になると、光で起きるんだよ」
結衣は自慢げに言った。悪くない起き方だ。実際、目覚まし時計よりも僕たちをよく起こしてくれる。

結婚して、同じ屋根の下で眠るようになって1週間が経った。深夜2時、窓の外は相変わらず、街の明かりが輝いている。僕はふと目を覚ました。なぜ目が覚めたのか、すぐに分かった。隣から結衣のすすり泣く声が聞こえたからだ。

「結衣?」

僕は起き上がって結衣を見た。結衣は天井を見つめながら、呆然とした顔だった。彼女を起こしてみる。涙と鼻水でぐずぐすの彼女の顔を、パジャマの袖で拭う。彼女が僕の首に腕を回し、僕もまた彼女を引き寄せた。彼女の心臓は、どっどっと早鐘を打っている。
「どうした?」
「夢、みた」
「怖い夢?」
「うん」
「どんな夢?」
「あのね、あの、部屋の隅に、大きい蜘蛛がいたの。すごく大きくて、子供くらいの大きさの、黒い蜘蛛がいたの。私は怖くて、声が出なくって、じっと蜘蛛を見つめて……蜘蛛は黒い煙のような、黒い綿糸をぐちゃぐちゃに丸めたような、輪郭のぼんやりとした姿をしていました。そのぐちゃぐちゃは、だんだん膨張して、私の顔めがけて落ちてきたのです」
「落ちてきて、びっくりした?」
首元で彼女が頷く。正直僕は、子どもの見る悪夢に怯える彼女に呆れてしまった。けれど、その怯え方が尋常ではないことは分かった。僕は子どもをあやすように背中を叩いた。優しく、リズミカルに叩きながら、「残念だな」と言った。
「ざんねん?」
「その夢には続きがあるんだぜ」
僕は、思いついたままに話し始めた。


「天井にはりついた大蜘蛛は、うら若き女の夢を狙う夢食い蜘蛛です。闇を渡り歩き、人知れず夢を食うのです。夢を食われた女は眠ったまま死んでしまいます。
女を守るのは、美しい青年騎士です。しかしこの青年の姿を、女が目にすることはありません。が眠れば青年は姿を現し、女が目覚めれば青年は姿を消してしまうからです。
どうして青年は、女が眠っている間にしか現れないのでしょうか?それは、青年もまた、女と同じように眠りについているからです。
夢食い蜘蛛から大切な人を守るため、彼女の隣で眠っているのです」

 

おしまい、と締めくくると、彼女はパチパチと小さく手を叩いた。
「感想は?」
「かわいい」
「面白いじゃなく?」
「そんな話を思いついちゃう、司くんがかわいいです」
背中に回した腕に力がこもる。ぎゅ、と抱きしめると、彼女は安心したように笑った。
「もう蜘蛛、怖くないよ」
「ほんとかな?」
「だって、守ってくれるんでしょ?」
結衣はそう言って、いたずらっぽく笑った。よかった。いつもの彼女だ。

 

この晩を境に、僕は彼女の悪夢を書き換えるようになった。