【掌編】名前はまだない。
幼い頃から、スプーンというものが苦手だった。
特に先の割れたスプーン。あれで目玉をほじくられたらと想像すると、恐ろしくてたまらなかった。
幼い頃から、お箸も得意ではなかった。
あれを咥えたまま、うっかり転んで喉奥まで押し込まれたらと想像すると、恐ろしくてたまらなかった。
火のつくものも嫌いだった。ライター、チャッカマン、ガスコンロ。うっかり火をつけて、どこかに燃え移ったらどうしようかと、心配で心配だった。実家では、木製の戸棚にポイと入れてあったもので、私はそれが恐ろしくてたまらなかった。
首に絡まるイヤホンのコードや、ネックレスは、窒息しそうで身につけられない。高いハイヒールは、線路で引っかかってそのまま電車に轢かれそうで怖い。だからいつも、低くて太くて野暮ったい靴を履いている。
通勤も嫌い。ホームドアに挟まりそうで、駆け込み乗車なんてもってのほか。でも、なにかの参列みたいにお行儀よく電車を待つのも、そのまま誰かに押されて、線路に落ちてしまったらどうしようと不安になる。
「スミちゃんの世界は、危険でいっぱいなんだね」
たーくんは、私の怖がりをからかった。心配性で、怖がりで、引きこもりな私の、今のところ1番安心できる人。
「現場でね、夏になるとみんな、スウスウするウェットティッシュで顔を拭くの。甘いような鼻につく匂いがしてね、執務室いっぱいに広がるの。あれも嫌い」
「気持ちいいんだよ」
「でも嫌い」
そんなこと言われると傷ついちゃうな、と言って、たーくんは私の頭を撫でた。大きくて温かい手が、ちょっと好き。
「さ、終電だ。帰るね」
「帰っちゃうの」
「次はデートしよっか。どこ行きたい?」
「わかんない」
嫌いなものはたくさん思いつくのに、好きなものを訊かれると難しい。
「考えておいて」
返事をして、玄関で見送って、たーくんは帰っていった。私は、たーくんを見送るこの瞬間も、大嫌い。
小学校で、皆勤賞を取ったことのある私は、中高生では年に1回くらい、仮病を使って休んでいた。大学生になるとさらに酷くなって、出席日数を計算しては、サボれる日数を日々確認していた。大学自体は嫌いじゃなかった。赤煉瓦の本校舎は、どこもかしこも堅苦しくて、でもすごく静かだった。大学生を見るのも嫌いじゃなかった。高くて細くて壊れそうなヒールを履いて、キラキラと着飾った女子大生を見ると、可愛いと思った。ただ、甲高い声で下品に笑ったり、鳥のように可愛い声で陰口を言ったりするのが、耐えられなかった。
社会人になってサボり癖が消えるわけもなくて、やっぱり時々仮病を使って休んでいた。欠勤だとお給料が減って、月末に後悔するのだけれど、結局やっぱりやめられない。朝から昼、昼から夜と、夢と現実が曖昧になるまで眠るのが好きだった。